おはよう #筆舌につき
大変お久しぶり、わたしの静かでちいさな居場所。数年前の更新たちを読み返すと、当時の自分に対する実感のなさに笑えた。あの頃楽しんだり悲しんだりしていたこと、感情や行動、あんなに生々しかったはずの手触りがあまりに遠い。それは過去のわたしにとってもそうだろう。過去のわたしが今のわたしに出会ったとして、なにひとつ実感を持てないのだと思う。
わたしにとって、生きていくこと、は、いつもその繰り返しだ。数年前の自分はすぐに他人になってしまうし、今の自分も、現在と未来の自分に期待をしていない。期待をしていない、というか、自分の人生に対して「こうなっていたい/いてほしい」といった感情を抱くことがない。それは生きている実感が希薄であるゆえであり、ただ健やかであればそれでいいという優しさと諦めでもある。
だからこそ、今の自分が明確に過去の自分の想像を超えるときにはニヤリと笑える。あなたが期待していなかった未来の自分は、あなたの想像もしなかった場所に辿り着いているのよ、と、過去のわたしにこっそり教えてやりたくなる。だから大丈夫。今あなたが息も絶え絶えに生きていること、苦しんでいること、傷ついていること、そのすべてが報われるわけはなくて、意味があるとも限らず、一生忘れないと思ったことさえ案外簡単に薄れていくのだけれど、とにかく、息をすることと何かを好きでいることをやめないでくれたからわたしはこんなに遠くまで来れたのよ。大丈夫、ありがとう。
2025年4月現在のわたしは、正直、2024年12月当時のわたしでさえ想像していなかったわたしだ。これまで何度も生まれ変わるようだ、と思う経験をしてきたのに、さらにその先の先、なにもかもがくるりと転回した今だ。近頃、しみじみと「幸せだ」と思う瞬間がままある。うれしい、や、たのしい、の感情が生まれるのと比べて、しみじみとした幸福などは、そう易々と出会えるものではない、はずだ。少なくとも今までのわたしの人生においてはそうだった。それが最近は、生放送を終えた帰路のふとした瞬間や、全てのスイッチを切って呆ける休日の午後などに、しみじみと、じわじわと、「幸せだ」という言葉があたたたかく確かな実感をもって現れる。なにか分かりやすい出来事や誰かとの関わりの中で湧き出してくるならまだしも、ひとりで過ごす時間にこそ、である。
ものすごく幸福なことだと思う。わたしに対するわたしの感情は、前述したような話で、今も昔も大して変わっていない。わたしが幸福なのはわたしのおかげじゃない。一から百まで全部、わたしを受け入れてくれる人たちのおかげだ。この数か月のわたしの原動力を紐解いていくと、その根底に「報いたい」という感情がある。わたしを信じてくれた人に、わたしにさまざまな出会いをくれた人に、わたしを待っていてくれた人に、報いたい。できることはそう多くなくても、どんな形であれ、わたしがいてよかった、と1mmでも思ってもらえる瞬間をつくりたい。
できることはまだまだ本当に少ない。今は自分の生活を回すのにも精一杯で情けない。けれど、報いたい、と思える人たちがいること、それだけ大事な人たちと一緒に笑い合えるわたしであること、それはわたしの誇りに、「大丈夫」と思える根拠になる。この文章をここまで読んでくれるような、そうしてわたしを気にかけてくれるようなあなたのおかげでわたしはわたしを認めてやれるのです。心の底から、ありがとうの気持ちが湧いてくる。未熟であるなりに、わたしはわたしのままで、すこしでもあなたとポジティブなエネルギーを分け合いたい。
久しぶりにパソコンに向かって、たくさんの人に向けて、という気持ちで文章を書いたらあまりにしゃきっと長くなりすぎてしまった。弱々しくも宣誓のよう、こんな着地になるとは思ってなかったものの一度今のムードを記せてよかったな。ここは本来、メアドを登録する一手間を経てまでわたしのなんてことない感情や思考の切れ端を読みたい、と思ってくださる愛すべきみなさまとわたしがゆるりとムードを共有する場所。次の更新からはそのモードに戻るのでよろしくね!またつらつら文章の上でおしゃべりできるの、とてもうれしいな。
ではまた☺︎
すでに登録済みの方は こちら